FAKE論:何が正しくて何が間違いなのか? 森達也監督のドキュメンタリー映画を観ての感想と妄想(前編)

ピアノの鍵盤を弾く手

遅ればせながら映画「FAKE」を観ました。
全聾の作曲家という設定(?)だった佐村河内守氏の、
騒動後を追った映像作品。
ドキュメンタリー作家の森達也が監督しています。

彼のドキュメンタリー作品に、
「職業欄はエスパー」
というのがあって、
定期的に無性に観たくなるんです。

2、3日前にもまた観て、
そういえばまだ「FAKE」観てなかったなと思い、
2年くらい切れていたTSUTAYAの会員証を更新し、
DVDを借りてきて、観ました。

事実とは何か?
情報とは何か?
人間は何を信じ、何を恐れているのか?

そういったことを淡々と、
だけど強烈に目の前に突きつけられ、
頭の中で自問自答が否応なく繰り返される、
そんな作品でした。

以下「FAKE」を観て感じたこと、思い浮かんだことの羅列です。

眼は語る

この映画で一番印象に残ったのは、

物語が進むにつれ、
佐村河内氏がすっごくいい人に思えてくる。
眼でそう感じた。

この眼は嘘をついていない

ところが、後半、
外国人ジャーナリストが登場するくだりから、
その方向性は突如乱される。
明らかにさっきと眼が違う。

あれ?やっぱりこの人嘘ついてる??

佐村河内氏の眼は、終始悲しげだった。
奥さんの眼は力強い。穏やかな力強さ。
猫はクリアで濁りのない眼。たぶん全て知っている。

ドキュメンタリーは嘘をつく

ぼくがもし仮に、
映像作品を撮るとしたら、
こういう風になるのかなあ、
と、観終わった後に思った。

あるいは、
こんなの撮れたら楽しいなあ、
という妄想。

虚と実

ぼくが観ているものは、本当に「それ」そのものなのか?
他の人には別のものに見えているんじゃないか?
何を信じているのか?
本当は何を信じたいのか?

森監督自身は、
インタビューや他の作品でも常々、
「ドキュメンタリーは嘘をつく」
と、堂々と公言しています。

ドキュメンタリー作家が、
これは嘘ですからね
って言っちゃうすごさ。

人の手が加わったものには、
どうしたって、
何かしらの意思や意図が入り込んでしまう、と。

二極化する社会

全てに白黒付けようとする風潮。

そのどちらかに属していればひとまず安心だけど、
逆に属していないとはみ出してしまうのではないか、という恐怖感。

そうした二極化に突き進む社会や時代への危機感と、
それらを生み出すメディアに対しての問題提起が、
この映画にはある。

正解や不正解なんてそもそもないし、
本当か嘘かなんて誰にもわからない。

ものごとは解釈次第でどうとでもなるし、
なんだっていい。

これはまさに、
プロレスであり、
ヨガであり、
コーチング的なスタンスだな、
と感じました。

どこまでが本当か?どこまでが嘘なのか?

早速プロレスの話になりますが(笑)、
プロレスというのは、
この境界線をどこに引くか?
そしてそれを、
あーでもない、こーでもないとお互いに見せ合いっこしながら楽しめる、
自由度の高い遊びです。

どこに線を引くかは人それぞれ。

やっぱそこだよね、とか、
お前そこに線引いちゃうのか、とか。
正解も間違いもない。

誰が一番強いのかっていう線を引いたっていいし、
プロフェッショナルとは何かっていう基準線を引っ張ったっていい。

スポーツなのかショーなのか?
ガチだ八百長だ。
なんていう議論すら丸っと飲み込むスケールのデカさが、
プロレスにはあると、ぼくは感じています。

虚と実をどう表現するのか

今現在、
好きな作家をあげるとすると、
以下の3名。

全員に「FAKE」との共通点があります。

虚と実

すべてのものは、
虚と実が入り混じって存在している。

それをどう解釈して、
どういうスタンスで、
どう表現するか。
それが生きるということだ。

沢木耕太郎「深夜特急」

最近また、何回目か読み始めたんですが、
虚と実の塩梅がすごくいい。

物語の主題である、
インドのデリーからロンドンまで乗合バスで行けるのか?
というものの非現実感と、
その道中に起こる日々の現実。

出会う人々から感じる胡散臭さと生々しさ。

作品自体が持つ、
ルポルタージュ性とエンタテインメント性。

あらゆる視点から、
虚と実のバランスがとても心地いい。

司馬遼太郎

司馬さんの作風やスタンスもすごくいいな。

彼の作品は主に歴史小説だけど、
突然、ストーリーの中に司馬さん本人が登場。
解説を始めたり、脱線したり、
平然と型を破りにくる。

正統的なベースがありながら、
かなりパンク。
カッコいいわ。

マーティン・スコセッシ

型の押さえ方と壊し方のさじ加減に、ゾクッとくる。

これまで主人公を演じていた役者が、
急にカメラに振り向いて、
平然と観客に話しかけてくる。

ん!?

気持ちのいい違和感。

淡々とストーリーが進行しているんだけど、
突如、下品で暴力的な描写が放り込まれる。
心電図が一瞬ビクンッ!と振り切っちゃうような、
不整脈をぶち込んでくる。

だけど、なぜかそこに、
人間の温もりや優しさを感じたりもする。

FAKE=偽物。ふりをする

結局、100%本物なんて存在しないし、
100%偽物もありえない。

白黒つけなきゃいけないのか?
グレーゾーンしかないんじゃないか?
完全な真っ黒や真っ白なんて、
かえって不自然だろ。

ものごとには必ず二面性がある。

だけど、
その二面だけしかないわけではなく、
その間や隙間、
外側や裏側、
あるいは時間や空間を超えたところにも、
点を打ちこめる場所は無限にある。

こうじゃなきゃいけない、なんて決まりはないし、
こうあるべき、という正解もない。

だからこそ、
人生ってたまに混乱するけど、
だからこそ、
面白いんだな。
そんなことをあれこれ妄想しました。

実はまだまだ書き足らないことがあるので、
後編に続きます。

とりあえず以上、
FAKE論:何が正しくて何が間違いなのか?森達也監督のドキュメンタリー映画を観ての感想と妄想(前編)
というお話でした。

ご静聴ありがとうございました。
また後編で〜。

ケン

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