FAKE論(後編):どの単位でものごとを捉えるか? 森達也監督のドキュメンタリー映画を観ての感想と妄想

宇宙の中の地球

中編の今回は、
どんな単位でものごとを捉えるのか、ということについて考えてみました。

単位をどこに置くかで、ものごとは全く違った意味を持つ

佐村河内氏が役割として行なっていたことは、
果たして作曲と呼べるのか?
という世間の議論が、
FAKEの作中に何度も登場していた。

いわく、
佐村河内氏は楽器も弾けないし、
譜面も書けない。
彼が作った音源はひとつも公開されていない。
つまり、彼は作曲していないじゃないか。
というような論調でした。

そこで思いを巡らせたのが、
どんな単位でものごとを捉えるか、
ということについて。

ぼくの結論を言うと、
ものごとなんて、
どの視点から見るか、どんな単位で切り取るかで、
まったく違ったものになりうる、
ということ。

何を、ひとつの単位とするか?

ひとりの「人間」とはなにか?というと、
一般的には、皮膚に囲まれた内側、
という認識があります。

それが「人間」という一つの単位。

とはいえ、
それはたくさんある中のひとつの視点に過ぎません。

人間という物質的な塊を、
もっと細かく細分化していくと、
細胞というひとつの単位が70兆個くらい集まった集団、
だとも言えます。

そのひとつひとつの細胞もまた、
ミトコンドリアとか、小胞体とか、核とか、
たくさんの単位に細分化することができます。

あるいは逆に、
単位のスケールを、外側に広げていくことも可能です。

たとえば、
誰かと二人で話をしているとき、
その相手も含めて自分、
それがひとつの単位、
ということはできないだろうか?

だって、
話をしている自分は、
相手の反応や感情によって当然影響を受けるので、
自分の定義に相手はどうしたって関わりを持ってくる。

人間は必ず他者との関係を持っています。
完全なひとりでは、
誕生することも存在することも不可能。

たとえば、両親がいなければ、
自分も生まれてなかったわけだし。
コンビニで買い物することだって、
コンビニを作った誰かがいて、働いている人もいるわけなので。
それらの人々を含めて自分、
という捉え方もできるわけです。

人間という集合体

このFAKEという映画は、
そういうことについて、
いろいろと考えさせられました。

たとえば、
一人のアイドルの女の子がいるとして、
彼女はたった一人で世に出て活動できているわけじゃない。

その周りには、
マネージャーもプロデューサーも、
プロデューサーもレコード会社もいるわけです。
ファンもいるし、家族もいる。

それらの集合体が、
ひとりのアイドルを形作っている。

あるいは会社。

会社は、法人ともいうけど、
法的に人格を持つ、
という意味です。

大企業だと何万人という人が、
心臓役、腕役、眼球役などと、
それぞれの役割を担って、
会社というひとつの単位を生存させている。

佐村河内氏が行なっていたことも、
それらと同じ構造と考えれば、
まったくおかしな話しではない。

佐村河内守っていう一つの象徴があって、
その裏で影で、
いろんな人がいろんな役割で関わって、
それを運営している、
そう捉えることもできます。

ものごとの意味なんて、いかようにも変わる

単位のスケールをさらに上げていけば、
国、世界、宇宙というように階層が上がっていきます。

最後の最後は存在です。
ヨガでいう、融合。
仏教でいうと、空。

どのスケールで捉えるかで、
ものごとは分離もするし、統合もされる。
ものごとの意味なんて、いかようにも変わる。

どれがいいか悪いかではなく。
そういう可能性があるということ。
そういう選択肢があるということ。

なので、
たったひとつの視点でものごとを捉えて、
これは悪だ、けしからん、
という風潮に、
ぼくはとても違和感を感じているのです。

以上、
FAKE論(後編):どの単位でものごとを捉えるか? 森達也監督のドキュメンタリー映画を観ての感想と妄想
というお話でした。

ご静聴ありがとうございました。

ケン

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