瞑想論:瞑想は行為ではなく状態

公園で遊ぶ姉弟と夕日

瞑想ってどうやるんですか?
とか、
瞑想が難しいです。
など、瞑想について質問されることがよくあるので、
ぼくなりに瞑想について考えてみたいと思います。

あくまでも、個人的な考えですし、
ぼく個人の体験をもとにした解釈であり見解です。
勘違いや間違い、拡大解釈、論理の飛躍等、多々あるかと思いますが、
その点ご了承のうえ、お読みいただけたら幸いです。

瞑想は行為ではなく状態

まず、大きな前提なのですが、
瞑想は行為ではなく状態である、とぼくは考えています。

瞑想と聞いてまず想像するのはどんなことでしょうか?

静かで少し薄暗いところに、あぐらをかいて座る。
目を閉じ、指先で輪っかを作って、
心を無にして、座り続ける。
座っている間は何も考えない。考えない。考えない。。。

というようなものが、一般的な瞑想のイメージではないでしょうか?
ただそれは、
そんな風すると、瞑想状態に入りやすいよ〜、ということに過ぎません。

瞑想状態に入るのに、
場所や状況、姿勢や所作などに決まりや正解はない。

だから、歩いている時、料理をしている時、会話をしている時、など、
あらゆる状況で瞑想はできます。
もちろん、瞑想状態に入るには、
上述したような状況や環境のセッティングは、
要素として大切になるでしょう。

まあ、言葉で書くのは簡単なんですが。。笑

いろいろな瞑想法

仏教には歩行禅というものがあります。
座禅はよく聞く言葉だと思いますが、
歩いて同じ境地に至る方法が古くからあるわけです。

中国気功の行功。
これは歩いて行う気功です。

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)はダイナミック瞑想を始め、
歩き回ったり、激しく身体を揺らしたり、ひたすら言葉(にならない音声)を発するなどの、
アクティブな瞑想法をいくつも提唱しています。

瞑想とは、対象に意識を集め、ただ観察すること

瞑想というのは、
状況や方法というものはあまり関係ないと思います。
もっと言えば、何でもいい。

今ある状況、今行っていることが何であれ、
それに意識を集めて、ただ観察する。
純粋にそれが出来ている状態を、瞑想状態と呼ぶ。

なので、歩いているときは、
右足がどの部分から地面からはなれ、どのくらい持ち上がり、
どれくらい前方へ伸びて行き、
それはどのくらいの重さがあり、
どこから地面に触れ、最後に地に着くのはどこか。
とか。

食事をしているときは、
目の前のどれから食べようか。
なぜそれを選んだのか?
箸でつまんだ感覚は固いか柔らかいか?
重さは?
口に入れた瞬間、何を感じるか?
甘いのか辛いのか?
葉に当たる感覚。
温度。
飲み込む感触は?
などなど。

意味づけせず、感情は動かない

どんなときでも、
体が動いている感覚や、感じている感覚などを、
そのまま観察して感じる。
その感じたことに、意味づけをしない。
これだけ歩いたんだから痩せるかな?とか、
これ美味しいからもっと食べたいな。っていうように、
感情が動いたとしたら、
それは瞑想状態ではなくなくなってしまう。

それがぼくの瞑想の定義です。
今のところ。

エラそうに書いていますが、
ぼくがそれを出来ているか、ということはまた別問題なのであしからず。笑
だから毎日、日々練習をしているのであります。

瞑想の定義に変化が現れたら、
また更新いたします。

ご清聴ありがとうございました。

ケン

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする